物語のように楽しめ、ジ~ンと人生を考えさせられる、本『君たちはどう生きるか』(吉野 源三郎)

 久しぶりに「また読みたい」と思った本で、考えさせられた。

著者がコペル君の精神的成長に託して語り伝えようとしたものは何か。それは、人生いかに生くべきかと問うとき、常にその問いが社会科学的認識とは何かという問題と切り離すことなく問われねばならぬ、というメッセージであった。著者の没後追悼の意をこめて書かれた「『君たちはどう生きるか』をめぐる回想」(丸山真男)を付載。
(本の概要より)」

 内容は、
・まえがき
・一 へんな経験
・ものの見方について(おじさんのノート)
・二 勇ましい友人
・真実の経験について(おじさんのノート)
・三 ニュートンの林檎と粉ミルク
・人間の結びつきについて(おじさんのノート)
・四 貧しき友
・人間であるからには(おじさんのノート)
・五 ナポレオンと四人の少年
・偉大な人間とはどんな人か(おじさんのノート)
・六 雪の日の出来事
・七 石段の思い出
・人間の悩みと、過ちと、偉大さとについて(おじさんのノート)
・八 凱施
・九 水仙の芽とガンダーラの仏像
・十 春の朝
という構成。

 レビューで「もっとはやくに読みたかった」「子供に読ませたい」などという評価を受けていて、私自身も本のタイトルでも興味がわいた。実際読んでみると、私もレビューと同じ感想を持った。

 本の構成は、主人公・コペル君のちょっとした物語があり、それに対しての伯父の手紙――その手紙がちょっとした解説のようになっている――という、「物語、手紙」という形になっており、物語のように楽しめ、読みやすく分かりやすく、物語を通して考えさせられる内容となっている。それは、「子供が読んでも分かりやすいのではないか」と思うほど。
 そして、人生や生活、友人たち、そして、自分自身について、考えさせられるだけでなく、自分で考えることの大切さ、そして、自分で考えていくようにうまくさせている。

 物語を通じて考えさせられること、そして、気軽に読め、熱くもなれ、心にジ~ンとくる内容で、オススメできる一冊。そして、ページをめくる楽しさを味わえる一冊でもあった。

 興味深かった内容は、

・人間というものが、いつでも、自分を中心として、ものを見たり考えたりするという性質を持っている。

・自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中の本当のことも、ついに知ることができない。

・人間が集まってこの世の中を作り、その中で一人一人がそれぞれ自分の一生を背負って生きていくということに、「どれだけの意味があるのか」、「どれだけの値打ちがあるのか」ということを、自分で見つけていかなくてはならないこと。

・絵や彫刻や音楽の面白さなどは、味わって初めて知ること。そして、心の眼、心の耳が開けなくてはならない。しかも、実際に、優れた作品に接し、しみじみと心を打たれて、初めて心の眼や心の耳が開けるということ。
 →人間としてこの世に生きているということが、どれだけ意味のあることなのか、それは、本当に人間らしく生きてみて、その間にしっくりと胸に感じ取らなければならない。

・肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えていくこと。
 →何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しでもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういうことについて、どんな感じを受けたか、それをよく考えてみる。そうすると、ある時、あるところで、ある感動を受けたという、繰り返すことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることが分かってくる。それが、本当の(君の)思想というもの。常に自分の体験から出発して正直に考えていくこと。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまう。

・学校で教えられたことや世間でも立派なこととして通っていることを、ただそれだけで言われた通りに行動し、教えられた通りに生きていこうとするならば、いつまでたっても一人前の人間にはなれない。
 →肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に自分の魂で知ること。そうして、心底から、「立派な人間になりたい」という気持ちを起こすこと。いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断していく時にも、また、自分がいいと判断したことをする時にも、いつでも、自分の胸からわき出てくるいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。

・世間には、他人の眼に立派に見えるようにと振舞っている人がいる。そういう人は、「自分が人の眼にどう映るか」ということを一番気にするようになって、本当の自分、「ありのままの自分がどんなものか」ということを、つい、お留守にしてしまう。
 →君自身が心から感じたことや、しみじみと心を動かされたことを、くれぐれも大切にしなくてはいけない。

・ニュートンが偉かったのは、ただ、重力と引力とが同じものではないかと、考えついたというだけではない。その思い付きから始まって、非常な苦心と努力とによって、実際にそれを確かめたというところにある。

・当たり前のことというのが曲者。
 →分かり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えていくと、もう分かり切ったことだなんて、言っていられないようなことにぶつかる。

・粉ミルク一つをとっても、粉ミルクが作られるところから赤ん坊のところまで、とてもとても長いリレーがある。粉ミルクを作る工場や粉ミルクを運ぶ汽車や汽船を作った人までいれると、数知れない多くの人がつながっている。でも、そのうち赤ん坊が知っているのは、近くにあるお店の主人だけで、あとはみんな知らない人。向こうだって、赤ん坊のことは知らない。
 →数え切れないほど大勢の人とつながっていること。そして、それは他の人にもいえること。

・商業が盛んに行われるようになり、国と国との間にさえ取引が行われるようになると、人間同士の関係は、ますますこみ入ってくる。こうなると、品物を作り出すためばかりではない、それを運ぶためにも、大勢の人間が協同して働き、その間に様々な分業が行われてくる。そうして、世界の各地がだんだんに結ばれて行って、とうとう今では、世界中が一つの網になった。

・一つやりそこなうと、三銭損してしまう。だから、自然一生懸命にやるようになる。

・ちゃんとした自尊心を持っている人でも、貧乏な暮らしをしていれば、何かにつけて引け目を感じるというのは、免れがた人情。だから、お互いに、そういう人々に余計なはずかしい思いをさせないように、平生、その慎みを忘れてはいけない。人間として、自尊心を傷つけられるほど厭な思いのすることはない。貧しい暮らしをしている人々は、その厭な思いを嘗めさせられることが多いのだから、傷つきやすい自尊心を心なく傷つけるようなことは、決してしてはいけない。
 →理屈をいえば、貧乏だからといって、何も引け目を感じなくてもいいはず。人間の本当の値打ちは、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけではない。自分の人間としての値打ちに本当の自信を持っている人だったら、境遇がちっとやそっとどうなっても、ちゃんと落ち着いて生きていられるはず。人間であるからには、たとえ貧しくともそのために自分をつまらない人間と考えたりしないように、――また、たとえ豊かな暮らしをしたからといって、それで自分を何か偉いもののように考えたりしないように、いつでも、自分の人間としての値打ちにしっかりと目をつけて生きていかなければいけない。
 →しかし、自分自身に向かっては、常々それだけの心構えを持っていなければならないにしろ、だからといって、貧しい境遇にいつ人々の、傷つきやすい心をかえりみないでもいいとはいえない。少なくとも、君が貧しい人々と同じ境遇に立ち、貧乏の辛さ苦しさを嘗めつくし、その上でなお自信を失わず、堂々と世の中に立っていける日までは、君には決してそんんな資格がない。

・労力一つを頼りに生きている人たちにとっては、働けなくなるということは、餓死に迫られることではないか。それなのに、残念な話だが今の世の中では、体を壊したら一番困る人たちが、一番体を壊しやすい境遇に生きている。粗悪な食物、不衛生な住居、それに毎日の仕事だって、翌日まで疲れを遺さないようになどと、贅沢なことは言っていられない。毎日、毎日、追われるように働き続けて生きていく。

・生み出す働きこそ、人間を人間らしくしてくれる。生み出していく人は、それを受け取る人々より、はるかに肝心な人。
 生産する人と消費する人という、この区別の一点を、今後、決して見落とさないように。

・君は、毎日の生活に必要な品物ということから考えると、確かに消費ばかりしていて、何一つ生産していない。しかし、自分では気が付かないうちに、他の点で、ある大きなものを、日々生み出しているのだ。それは、いったい、何だろう。
 →自分で一つその答えを見つること。この質問を忘れずにいて、いつか、その答えを見つければいい。決して、人に聞いてはいけない。また、人から聞いたって、「なるほど」と思えるかどうか、分かりはしない。自分自身で見つけること、それが肝心。
 お互いに人間であるからには、だれでも、一生のうちに必ずこの答えを見つけなくてはならない。

・人間が、ある場合には、どんなこわいことも、苦しいことも、勇ましく乗り越えていけること。自分から、苦しいことや辛いことに飛び込んでいって、それを突き抜けていくことに喜びを感じること。苦しみが大きければ大きいほど、それを乗り越えてゆく喜びも大きい。だから、もう死ぬこともおそろしくはない。、それが英雄的精神というもの。
 こういう精神に貫かれて死んでゆく方が、のらくらと生きているより、ずっと立派なことだと。負けたって、こういう精神に貫かれていれば、負けではない。勝ったって、この精神がなくなってれば、本当の勝ちとはいえない。

・何か心を打たれたことがあったら、よくそれを思い返してみて、その意味を考えること。

・実行力といい、活動力といい、素晴らしい精力といっても、それは、いったい何だろう。それは、人間が何かあることを成し遂げてゆく力ではないか。この世の中に何かある目的を実現してゆく力ではないか。
 その素晴らしい活動力で、いったう何を成し遂げたのか。

・彼らがその非凡の能力を使って、いったい何を成し遂げたのか、また、彼らのやった非凡なこととは、いったい何の役に立っているのかと、大胆に質問してみなければいけない。非凡な能力で非凡な悪事を成し遂げるということも、あり得ないことではない。

・人間は最初から人間同志手をつないでこの世の中を作り、その協働の力によって、野獣同然の状態から抜け出してきた。はじめはごく簡単な道具を使い、やがていろいろな技術や機械を発明し、自然界をだんだんと人間に住みよいものに変えてきた。そして、それとともに学問や芸術というものをも生み出して、人間の生活を次第に明るい美しいものに変えてきた。それは、遠い大昔から悠々と流れてきて、まだこれからも遠く遠く流れてゆく、大きな河のようなもの。これからも、何万年続くか、何十万年続くか、人類はまだまだ進歩の歴史を続けていくだろう。この悠々と流れてゆく、大きな、大きな流れを考えてみると、二千年、三千年の歳月さえ、短いものに思われてくる。まして、一人一人の人間の一生などは、ほとんど一瞬間にもひとしいものに思われてくる。
 →精神の眼を一度この広大な眺めの上に投げ、そのはるかな流れの中に、偉人とか英雄とか呼ばれている人々を眺め直してみたなら、どんなことに気が付くだろうか。

・英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬ができるのは、人類の進歩に役立った人だけ。そして、彼らの非凡な事業のうち、真に値打ちのあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけ。

・良い心がけを持っていながら、弱いばかりにその心がけを生かし切れないでいる、小さな善人がどんなに多いかということ。世間には、悪い人ではないが、弱いばかりに、自分にも他人にも余計な不幸を招いている人が決して少なくない。人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的な気魄を欠いた善良さも、同じように空しいことが多い。

・人間に行いというものが、一度してしまったら二度と取り消せないものだということ。自分のしたことは、だれが知らなくとも、自分が知ってますし、たとえ自分が忘れてしまったとしても、してしまった以上、もう決して動かすことはできない。自分がそういう人間だったことを、あとになってから打ち消す方法は、絶対にない。

・自分の行いや考えをしみじみと思い返し、しっかりと見つめること。

・どんなに辛いことでも、自分のしたことから生じた結果なら、男らしく堪え忍ぶ覚悟をしなてはいけない。
 →そして、また過ちを重ねてはいけない。勇気を出して、他のことは考えないで、今すべきことをする。過去のことは、もう何としても動かすことはできない。それよりか、現在のことを考えること。今、しなければならないことを。

・あの後悔・反省がなかったら、自分の心の中の良いものやきれいなものを、今ほども生かしてくることができなかった。
 →人間の一生のうちに出会う一つ一つの出来事が、みんな一回限りのもので、二度と繰り返すことはないのだということ――だから、その時、その時に、自分の中のきれいな心をしっかりと生かしていかなければいけないのだということも、あの後悔・反省がなかったら、ずっとあとまで、気が付かないでしまったかもしれない。
 あの後悔・反省のことでは、損をしていない。後悔はしたけれど、生きてゆく上で肝心なことを一つ覚えたから。人の親切というものが、しみじみと感じられるようになった。

・後悔したことがあっても、それは決して損にはならない。そのことだけを考えれば、それは取り返しがつかないが、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄ではない。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになる。

・体に痛みを感じたり、苦しくなったりするのは、故障ができたからだけれど、逆に、僕たちがそれに気づくのは、苦痛のおかげ。
 →苦痛を感じ、それによって体の故障を知るということは、体が正常の状態にいないということを、苦痛が僕たちに知らせてくれるということ。もし、体に故障ができているのに、何にも苦痛がないとしたら、僕たちはそのことに気づかないで、場合によっては、命をも失ってしまうかもしれない。

・苦しみの中でも、一番深く僕たちの心に突き入り、僕たちの眼から一番辛い涙をしぼり出すものは、自分が取り返しのつかない過ちを犯してしまったという意識。自分の行動を振り返ってみて、損得からではなく、道義の心から、「しまった」と考えるほど辛いことは、恐らく他にはない。
 →自分自身そう認めることは、本当に辛い。だから、たいていの人は、何とか言い訳を考えて、自分でそう認めまいとする。

・人間である限り、過ちは誰にだってある。そして、良心がしびれてしまわない以上、過ちを犯したという意識は、僕たちに苦しい想いをなめさせずにはいない。

・「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠が目醒めに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、私は見たことがある。」
 →ゲーテの言葉。僕たちは、自分で自分を決定する力を持っている。だから誤りを犯すこともある。しかし――僕たちは、自分で自分を決定する力を持っている。だから、誤りから立ち直ることもできる。

・言葉だけの意味を知ることと、その言葉によってあらわされている真理をつかむこととは、別なこと。

・世界歴史からいえば、まだ子供みたいなものだったけれど、日本人は、優れたものは優れたものとして感心し、ちゃんとその値打ちが分かるだけの心を持っていた。遠い異国の文物でも、優れたものには心から感心して、それを取り入れ、日本の文明をぐんぐんと高めていった。