基本の大切さを学べる、本『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』(佐藤 優,井戸 まさえ)

 小学校の教科書で分かりやすく解説されていました。

憲法改正 選挙 国会議員の仕事 栽培院精度 税金・・・・・・
教養は小6「公民」で鍛えろ!

表&裏から解説
各章にまとめ&深掘り講義
驚くほど読みやすい!記憶にも残る!
(本の帯より)」

 基本的なことをきちんと理解することがどんなに大切か。本書は政治の基本を、小学校の教科書を通じて、解説されていました。
 基本をきちんとおさえることで、社会の起きていること、政治の起きていることなど、政治・社会システムを学習、考えさせる内容になっています。

 基本をおさえるだけでなく、現実の課題も取り上げられていたり、現実政治の仕組みやシステムの問題、現実に起きていることも取り上げられていました。

 興味深かった内容は、

・教科書は何のために必要かという話に戻れば、教科書はまさに「ハシゴ」。
 →教科書に沿って学ぶのは高校までで、大学では教科書はあまり必要としない。それは、大学は教科書の上に立って、自分で積んでいく勉強をしなければいけない世界だから。
 2階に上がる技法をまずは身につけ、2階に上がってからは、自分で2階を歩かなければいけない。さらに3階に上がるのか、あるいは2階で心地良い場所をつくっていくのか、自分で考えて選ぶ。そういうことができる脳力を身につけなければいけない。

・教科書には、政治家は公明正大で、国民全体を代表して、みんなに満遍なく気配りをしないといけないというふうに書かれている。でも、「部分の代表」である政党が政権をとったら、「部分の代表」としての立場を貫けばいい。
 →もしもうまくいかなかったら、選挙で政権交代をすればいい。日本の場合は、どの政党も政権をとったら「全体の代表」になろうとするから、自民党も民主党もだんだん似てきて、ほとんど差がなくなってしまう。国民が自分にとっての「部分の代表」を選べない状況になってきている。

・内閣というのはその本質において社会と国家の接合点。
 →だから内閣に入る、与党になるということは、政治家としては大変な矛盾を引き受けることになる。そこにいくと野党はラクなんです。「社会の代表」として機能していればいいわけだから。

・与党というのは、ややもすると国家に引き寄せられてしまう。そうすると、官僚に近い発想になってくる。

・今の政治は、景気が良ければ全て良し、景気が悪ければ政治が悪いということにされてしまう。政治と経済が不可分で、その他のことは二の次、三の次になってしまうところがある。

・「政治によって経済を良くしろ」と市民がいくらクレームをつけても、経済は良くならない。
 →それは一人ひとりの人間の行動について考えてみるとよく分かる。みんなが政治に関心を持つ→デモに行く→市民一人ひとりが乗り出してきて、政治にクレームをつける→その時間に彼らは何をしているかといえば、働かないわけ→経済は当然、、停滞する。
 代議制が取られている理由はまさにそこにあって、規制緩和や競争促進、あるいは待機児童の解消といった経済を良くするための政策は、本来なら職業政治家に任せないといけない。政治はプロがやるものだと。日本の場合、およそ1億2,700万人の人がいる中で、国政に関してはわずか800人を切るくらいの人が代表して、プロだけが政治をやっている。その政治家を選んだ国民は、その間はひたすら働く。
 教科書にも「国民は政治的関心を持ち、選挙に行こう」と書いてあるが、それは本当は市民社会の論理ではない。国民は政治をやらないで「欲望」を追求する。経済活動なり、文化活動成りの欲望を追求する。それで税金を納める。それによって社会が発展していくのが、基本的な資本主義社会、市民社会の考え方。

・実際の裁判には、2種類のスタイルがある。米英とヨーロッパでは、やり方が違う。法の世界では「大陸法」と「英米法」の考え方が違う。大陸というのはヨーロッパ大陸、つまりドイツ、フランスのことで、それと英米法の考え方が違う。その関係で、裁判にも2通りのスタイルがある。
 →日本の民法はフランス法とドイツ法がベース。戦後はアメリカの影響を受けて、英米法をもとに書き換えられた法律も多いと聞きく。例えば、皇室典範や国会法はイギリス法を、証券取引法や刑事訴訟はアメリカ法をというように。刑事訴訟法は、英米法と大陸法でどんな特徴があるかといえば、英と米はほぼ一緒で、捕まえた人をすぐ起訴するが、大幅な司法取引がある。「正しいか正しくないか」を裁くというよりも「折り合いをつける」という発想。それに対して、ドイツ・フランスの裁判は、国家が「正しい、正しくない」を裁くという考え方。だから、逮捕されるところまでは一緒だが、起訴はすごく少ない。予審制度というのがあって、本格的な裁判に行く前に予審裁判を行う。そこで有罪になった場合しか起訴されない。だから、結果的に有罪率は非常に高くなる。

・ネット上で出回っている情報について、確かめもしないでコピー&ペーストして流すのは犯罪だということ。
 →インターネットがこれだけ普及して、何気なくリンクしたものが名誉棄損にあたったとか、他のページから引用して書き込んだことが偽の情報で、悪気がなかったとしても罪に問われることがありうる時代。

・積極的平和主義というのは、元来は北欧で唱えられていた、「安全保障メカニズムによって監視システムなどをつくって戦争をできない体制にしていく」こと。
 →近年、日本でいわれているのは、それを一歩進めた変形バージョン。
 どういうことかというと、第二次世界大戦後、国連の体制で戦争が違法化されて犯罪となり、それを国連の安全保障理事会が平和維持行為として取り締まるという体制になった。その警察活動に協力することが平和主義なんだ、というわけ。だから、イラク戦争も「戦争」ではなく、平和を維持するための「制裁行為」だととらえている。

・そもそも憲法改正についての議論の中で決定的に欠けているのが、「憲法を改正することが国際社会にどう受け止められるのか」ということ。
 →「日本国憲法の三つの顔」の2番目に、「外交宣言」としての顔があると書かれている。日本国憲法には国内法典以上の意味がある、と。憲法というのは、その国がどんな国なのかという国際的な宣言でもある。そうすると、現行の憲法は、ポツダム宣言の受諾、玉音放送、9月2日の降伏文書への調印、憲法の改正、そしてサンフランシスコ平和条約という、この一連の戦後処理の中の文脈で理解しなければいけない。
 それを無視するようなことをすると、国際社会でどう受け止められるか、それが持つ意味をどう解釈されるのかということ。憲法改正に関して非常に消極的な考え方の人たちが出てくるのは、この一連の流れに対して、「国際社会にどう受け止められるのか」という部分を考えるから。憲法を国際的な宣言とすると、改正が他国にどういう効果を与えるのか。そこの議論が決定的に欠如している。

・日本では、「うちの会社は業績が悪かったんだ」というと、労働者は賃金が上がらないどころか、賃下げにも納得してしまう。その代わり、解雇が起きない。ところが、その枠が競争社会の中で崩れてしまった。会社が中間団体の機能を果たさなくなり、会社の中でも競争や原理主義が広がってくる。すると、「出世できないなら会社を辞める」と簡単に辞める人が増える。あるいは、会社はとりあえず腰掛けとか、ノウハウだけ身につけようと考える若手が増える。そうすると上司や先輩社員は、その若手にノウハウを教えるはずがない。その結果が、使うだけ使って使い捨てということになる。
 だから派遣労働やパート、アルバイトでは、仮に働けたとしてもスキルが全然身につかない構造になっている。
 →例えば宅配業者で荷物の仕分けの仕事なら、仕分けだけずっとやらされる。本来は仕分けをしながら全体の流れを見るとか、配車をするとか、いろいろなことを覚えて物流の管理部門にだんだん上がっていくわけだがそうならない。20歳で集荷をやっていた人が、15年経って35歳になっても同じことをやっている。賃金もほとんど同じ。
 だから、中間団体が崩れることによって、社会がバラバラになっている。そうなると、社会がどこかでもう一回再結集しなければいけない。すると、「動員型政治」が行われる。普段は政治に関与していない人を、「集まれ」といって集めてきて束ねる。この時に市民が自発的に集まってくるのではなくて、「この指とまれ」と集めている人がいる。これが動員型政治で、その内側にいる人たちには温かい。外側にいる人たちに対しては冷たい。だた、それは中間団体ではない。
 今までの旧来型の共同体がもはやもたないのは確かで、一度バラバラにした後、固め直すことが必要。

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